真の強さとは何か

強さを求めるうちに「平成最強の不良」と呼ばれるようになった男が見た本当の強さとは何だったのか?
本当に喧嘩すべき相手は誰なのか?
天下国家に生きる「強さ」に目覚める日本男児のためのバイブル、第一章を無料公開中。
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与国秀行著『真の強さとは何か』第一章無料公開部分のオーディオブックを公開しています。
通勤の途中や、ジョギングをしながら「強さ」について考えてみませんか?

はじめに

 「男の強さ」とは何なのだろうか?
 日本の若者の死因の第1位は自殺となり、日本の自殺率は先進国1位となり、孤独死する老人は増え続け、子どもの7人に1人が貧困状態となり、体を売る女性も増え、学費のために風俗で働く女性まで増え、日本は精神病院のベッド数で世界ダントツ一位である。
 まさに日本は今、老若男女ともに苦しい立場に立たされており、今後、さらに私たちは、苦しい立場に立たされる可能性がある。
 そして人類は今、一歩間違えたら世界大戦の危機、あるいは人類滅亡の危機にさえある。
 日本の男たちよ、そろそろ「男の強さとは何か?」ということの問の答えを出そうではないか?
 日本の男たちが、この問の答えを出さずに、このまま時代が進めば、やがて日本は滅び、世界も滅んでしまうだろう。
 本書を読めば、その意味が深く分かるだろう。
 喧嘩に強い人間が、「男の強さ」なのだろうか?
 格闘技の試合で勝ち続けることが、「男の強さ」なのだろうか?
 テレビに顔が映り、新聞に名前が踊り、名誉や名声を勝ち取ることが、「男の強さ」なのだろうか?
 他の人よりたくさんお金を稼ぎ、貯金通帳の残高が多いことが「男の強さ」なのだろうか?
 位人臣を極め、権力を掌握することが「男の強さ」なのだろうか?
 「人間としての強さ」とは、そういったものなのだろうか?
 日本の老若男女ともに苦しい立場に立たされ、人類滅亡の危機にさえあるようなこの現状を、この流れを、男たちは放置しておいて、本当に良いのだろうか?
 本書を最後まで読んで頂ければ、「男の強さとは何か?」という問の答えを、おそらく貴方は見つけ出し、「より強くならん」と、新たな道を歩み始めていることだろう。
 なお、本書はアウトロー向けの話も含まれているために、「です・ます調」ではなく、あえて「である調」で書き出して、途中から「です・ます調」に変えるのも変なので、最後まで「である調」で書き終えてしまった。もし仮に傲慢不遜に感じ取られることがあったら、最初に謝っておきたい。
 なぜならけっして私は、礼を欠くつもりはないからである。

与国秀行

一章 失われた大和魂

はき違えた強さ

『東京卍會』と『関東連合』

 先日、渋谷の街を歩いていると、背中に「卍」のマークを刺しゅうした、黒い特攻服を着た若者たち数名がチラシを配っていた。特攻服とは暴走族が着るものだ。しかしその若者たちの雰囲気は、オシャレで、金髪に髪の毛を染めていたり、伸ばしていたりしており、少しも私が知る暴走族らしくはなかった。
 「卍の特攻服」、私はこれに思わず驚いてしまい、その若者たちに話かけた。
「君たちは何者なのか?」
 若者たちは突然、見知らぬオヤジに話しかけられて困っていたが、彼らの話によれば、彼らは『東京卍リベンジャーズ』という漫画に登場する暴走族のコスプレをしているらしく、また彼らはバンドを組んでいて、そのライブのチラシを配っているのだという。
 どうやら最近では、この『東京卍リベンジャーズ』という漫画がかなり流行っているそうだが、この漫画のストーリーはあながち嘘ではない。この漫画の作者は、新宿歌舞伎町を舞台にした『新宿スワン』という漫画を描いているために、おそらく作者自身が東京の裏事情に詳しいのだろう。
 この『東京卍リベンジャーズ』という漫画のストーリーは、主人公は二十代の冴えないフリーターで、中学時代は不良少年だった。しかし中学時代に付き合っていた彼女が、犯罪組織『東京卍會(とうきょうまんじかい)』の抗争に巻き込まれて(・・・・・・)死亡したことをニュースで知る。その犯罪組織『東京卍會』は、もともとは彼の地元の暴走族であった。
 その後、主人公はバイトの帰り道に、何者かに背中を突き押されて、駅のホームから線路へと落とされる。そこに電車が入ってくるのだが、しかしなぜか主人公は死ぬことなく、十二年前の中学時代にタイムリープしていた。彼は中学時代の彼女が、未来で抗争に巻き込まれて死ぬことに恐怖する。そして彼は、暴走族『東京卍會』が犯罪組織『東京卍會』となって、最悪な事件が起こることを避けるために、過去で必死に奮闘していくのである。
 これがざっくりした『東京卍リベンジャーズ』のストーリーであるが、もう一度、言うが、この漫画はあながち嘘ではない。2012年9月2日の深夜、六本木のクラブ『フラワー』にて、リーダーの見立(みたて)真一(しんいち)をはじめとする『関東連合』のメンバーが、敵対している相手の男と間違えて、見知らぬ男性が抗争に巻き込まれて(・・・・・・)死亡した。
 まずこの「抗争に巻き込まれて」という点が、現実と漫画で共通している。
 では、この「六本木『フラワー』襲撃人違い事件」は、なぜ起きたのか?
 それはこの事件から、さかのぼること四年前の2008年3月16日早朝、金村(かねむら)剛弘(たかひろ)という男が、西新宿5丁目の路上で、金属バットで武装した目出し帽をかぶった複数の男に襲われて亡くなった。その復讐として六本木の事件は起きたのである。一応、金村も『関東連合』のメンバーと言われている。
 拳銃を使わず、あえて金属バットで殴り殺したのは、逮捕された時に「障害致死」するためとも、あるいは大事件になって足がつかないためとも言われている。ヒットマンたちが拳銃を入手できなかったわけではない。
 この「西新宿金属バット事件」の犯人は未だに誰だか分からず、逮捕されていない。この西新宿事件の報復で、六本木の事件は起こってしまったのである。つまり「金村を殺したのはおそらくアイツらではないか?」、「アイツらが金村をヤッたに間違いない」ということで、見立たち『関東連合』は「六本木フラワー事件」を起こしたわけである。
 そしてこの漫画に登場する『東京卍會(とうきょうまんじかい)』という暴走族と同様に、確かに「卍」をシンボルにした暴走族が東京都内には存在していた。それは見立が16歳の頃からリーダーを務めていた『関東連合』所属の暴走族一つ、『永福町卐黒帝會(ブラックエンペラー)』である。ただ厳密には、漫画に登場する暴走族は「左万字(卍)」を使用しているが、現実に存在していた暴走族はナチスと同じ鉤十字(かぎじゅうじ)「右万字(卐)を使用していた。
 ちなみにこの『東京卍リベンジャーズ』という漫画に登場する、新宿を牛耳る『愛美愛主(メビウス)』という暴走族は、『関東連合』の新宿の暴走族『MEDUSA(メデューサ)』をもじったようにも思える。あるいは他にもこの漫画に登場する『黒龍(ブラックドラゴン)』という暴走族は、『関東連』と関わりの深かった、在日中国人たちの暴走族『怒羅権(チャイニーズドラゴン)』と『卐黒帝會(ブラックエンペラー)』の名前を足して2で割ったとしか思えない。
 現実と漫画が共通している二点目として、おそらくは作者や出版社が、あえて話を盛り上げるために、意図的に漫画に登場する暴走族の名前を文字っている点である。
 私の少年時代は、テレビや雑誌といったメディアを騒がせた「チーマー」と呼ばれる少年たちがいて、オシャレな服装をして、渋谷や新宿、池袋、吉祥寺といった都会の街でたむろしており、そしてチーマー同士で喧嘩したり、あるいはチーマーと暴走族が喧嘩していた。その暴走族の中に、『関東連』、『怒羅権』といった暴走族がいたのである。

はき違えた強さ

作者は現実を文字っている!?

 『関東連合』というのは、幾つもの暴走族が加盟している連合組織であって、見立たちは暴走族はやめても、「生涯現役」を口にして、六本木界隈で暴れまわっていた。漫画では『東京卍會』が犯罪組織『東京卍會』へと発展するが、『永福町卐黒帝會』が加盟していた暴走族『関東連合』が、「海老蔵事件」や「六本木フラワー事件」などを起こす犯罪組織『関東連合』に発展するのである。
 「海老蔵事件」とは、西麻布のバーで『関東連合』のメンバー数名と、歌舞伎役者の市川海老蔵が同席して酒を飲んでおり、『関東連合』メンバーから暴行を受けた事件である。裁判では『関東連合』側は、海老蔵が「俺は人間国宝だ!」などと横柄な態度を取り、彼らに灰皿で酒を飲むように強要したと主張している。一方で海老蔵側は、「そんな事実はない」として、これを否定している。
 『関東連合』について、よくテレビなどでは「半グレ」と報じられるが、彼らは「本グレ」ならぬ本物のヤクザや暴力団と何も変わらない。なぜなら実際に『関東連合』のメンバーの中には、ヤクザから盃を受けている者、あるいは暴力団に所属している者たちが大勢いたからだ。彼らは、異なる様々なヤクザ組織に入りながらも、『関東連合』という犯罪組織を構成していたのである。
 なぜ彼らは生まれたのか?
 とある西のほうのヤクザの親分から、私が聴いた話によれば、度重なる法律の改正によって、ヤクザ事情も昔と今とではかなり違うそうである。組の幹部や組長は羽振りが良く、昼間から料亭でドンチャン騒ぎすることがあっても、料亭の前でボディガード役として、親分衆を守っている若い衆になると、財布やポケットの中には数千円しか入っていないこともあるという。しかしたとえ稼ぎにならなくとも、「ヤクザの生き方が好きだから」と、普段は土木作業員などをして働きながらも、日曜日だけヤクザをやっている人も中にはいるという。
 というのも戦後、日本政府はヤクザを取り締まるべく、賭博を禁止したり、銃を厳しく規制してきた。その結果、多くのヤクザ組織が任侠道を見失い、麻薬売買に手を出して単なる暴力団と化し、そしてさらに地下組織化してきた。そこで日本政府は、さらに法律を変えて、暴力団に所属している者は、実名では携帯電話さえ契約できない状態にまでになった。今やヤクザに法的な人権は無い。
 するとその結果、「オレオレ詐欺」や「薬物売買」が暴力団の資金源となり、悪の面が強まる一方で、しかしその組織力はかなり弱体化しつつある。そこに政府が入館管理法(移民法)を改悪したことで、外国人移民が増えてことで、凶悪な外国人マフィアが日本に入り込んできた。南米からやってくる移民も犯罪集団化しつつある。もちろん彼らは、利益のためならなんでもやる。
 私が個人的に親しくさせて頂いている、「昭和最後のフィクサー」と称される朝堂院大覚という方によれば、新橋にいる中国人マフィアは、こういったそうである。「これからこの街はオレたちが仕切る」と。
 つまり皮肉なことに、日本政府が法律を次々と変えて、ヤクザを取り締まる度に、世の中は良くなるどころか、むしろ犯罪が増える方向に向かってきたわけである。まったくの悪循環だったわけである。
 さて、喧嘩や暴力が「男としての強さ」なのか?
 もしそうであるならば、「喧嘩」という暴力を美化して、不良少年の話を面白楽しく描き、映画にまでなった『東京卍リベンジャーズ』は、「男としての強さ」を描いていることになる。
 「六本木フラワー事件」に関わった多くの者たちが、長い服役を終えて出所したり、未だに服役中の者もいるが、主犯格の見立真一だけは、いち早く国外逃亡して国際指名手配になっている。おそらく誰もが一度くらいは、彼の指名手配の写真を見たことがあるだろう。

はき違えた強さ

喧嘩に最上の価値を置いてしまった

 なぜ私が『関東連合』や『怒羅権』などの東京の裏事情に少しばかり詳しいのかと言えば、なんともお恥ずかしい話だが、かつては私も、東京で派手に暴れまわっている不良少年であったからである。そして国際指名手配されている見立は、私の中学の二つ年下の後輩であり、どうやら少年時代の一時期、彼は私に憧れていたそうである。また西新宿で殺された金村は、新宿で出会った私の一つ年上の先輩であり、なおかつ彼は、ある意味において、一時期、私とライバル関係でもあった。
 西新宿で金村が殺された通夜の夜、私は見立たちに対して、「これを機に堅気になろう」と訴えた。
 もちろん話は通じなかった。そして通じないことも十分に予測できていた。
 ただ、言わねばならなかった。
 なぜなら私には、彼らがいわゆる「返し」、つまり「復讐」することによって、必ず「悲惨な未来」が待ち受けていることが予測できたからだ。「復讐はただ連鎖するだけだ」と、私は悲惨な未来を予測していた。
 しかしその「悲惨な未来」は、私の想像をはるかに超えていた。亡くなったのは『関東連』と敵対している者たちではなく、まったく関係のない方が抗争に巻き込まれて、そして命を落としたからである。
 まるで『東京卍リベンジャーズ』のようだ。
 殺害方法は、金村がやられたやり方と同じく、悲惨な金属バットによる撲殺であった。「目出し帽に金属バットで襲撃する」、実はこの手法は少年時代からの『関東連』の常套手だった。同じやり方でヤッた奴、ヤラれた奴が私の周りにはよくいた。
 なぜ、私には「アイツらは絶対に復讐する」ということだけは、容易に想像できたのか?
 それは『関東連』の仲間が殺されて、もしも「返し(復讐」」を何も行わなければ、逆に『関東連』がその世界で、周りの人間たちから舐められかねないからだ。
 だから私は、話が通じないことを承知の上で、「中学時代の憧れの先輩とその後輩」という、ただそれだけの間柄を理由に、無駄であることを十分に知りながらも、あえて見立真一にこう言った。
「金村先輩の死をキッカケに堅気になろう。恨み心で恨みは解けない。
 残された者が堅気になって幸せに生きることが、金村先輩への供養であり、弔いだ」
 しかし悪の世界に完全に染まり切っていた見立には、私の言葉は届かなかった。
 私は『関東連合』どころか、どこのチームや暴走族にも属していたわけではない。
 だが恥ずかしながらも、なぜか私は、ネットで「関東最強の不良」などと呼ばれた。
 90年代のバブル崩壊の頃、私たち東京の不良少年は、渋谷、新宿、池袋、吉祥寺、そして何よりも六本木で派手に暴れまわっていた。そして私には都会で色々な友人、仲間ができた。そこにはチーマーもいれば、暴走族もいた。
 東京のみならず、神奈川県や千葉県といった他県の者、中には有名私立高校に通う者から、「超」がつく田園調布のお嬢様もいれば、あるいは昼間は土木関係で仕事をしている者まで、実に様々な個性だった。尾崎豊の『卒業』という歌詞の中には、「誰かの喧嘩の話にみんな熱くなり」とか、「従うことは負けることと言い聞かせた」とあるが、この歌詞には当時の私たちの心情と共通する部分がある。
 なぜならかつての私たちは、勉強ではなく、スポーツでもなく、「喧嘩」にこそ最上の価値を見いだして、「喧嘩に勝ってこそ男、負けることは男の恥、喧嘩から逃げることは男として最低」という価値観に、完全に染まり切っていたからである。
 当時の日本中の不良少年たちは「喧嘩」に本気(マジ)だった。
 喧嘩になれば絶対に引かないヤツもいた。敵対する勢力に拉致されて、コンクリートの地面に頭を何度も叩きつけられて、車のトランクに詰め込まれ、山奥に連れ去られても、それでも引かないヤツもいた。その男は、そんな状況でも、「誰をさらっているのか分かってるのか?」と、相手に上等を切り、逆に拉致した側が震え始めたという。映画『仁義なき戦い』の中で、菅原文太演じる広能昌三のセリフに「狙われるもんより、狙うもんのほうが強いんじゃ」という言葉を、信条にしているヤツもいた。「喧嘩に負けるくらいならば刺して少年院に行く」と口にしたヤツもいた。
 たとえ少年といえども、そんな者同士が喧嘩になれば、命を落とすのは必定である。
 そして多くの仲間たちが、二十歳くらいを境にして、その喧嘩の世界を卒業したのだが、しかし見立たち『関東連合』は卒業することなく、「生涯現役」を口にしたわけである。
 しかし「六本木フラワー事件」でリーダーの見立が海外に逃亡し、多くの者たちが逮捕されたこと、そして残った者たちもヤクザの世界で出世したり、自分で会社を起こしたり、普通に勤め始めたりと、それぞれ別の道を歩き出したことで、現在、『関東連合』はほぼ壊滅している。

はき違えた強さ

喧嘩の強さとは何か

 金村が西新宿で殺された直後、私は元プロレスラーの前田日明さんが主催される『ジ・アウトサイダー』というアマチュアの格闘技大会に、メインイベントで出場した。「生きる都市伝説」などというあだ名をつけられて。
 その試合の約二週間くらい前、私は友人たちと集まり、格闘技の試合に向けて、六本木で「激励会」とも、「決起大会」とも言える食事会を開催していた。どうやらその当日は、見立の誕生会も六本木の別の店で開かれていたようである。
 金村は見立の誕生会に出席し、同じ六本木ということもあって、私の「激励会」にも顔を出してくれたそうだが、しかし私は一足先に帰ってしまったために、残念ながら私は彼に会えずじまいであった。そのために私が朝、起きて携帯電話を見ると、友人から「金村も応援に来てくれたよ」とメールが届いていた。
 金村が殺されたのは、その数時間後であった。
 お昼くらいには、私の携帯電話に、「金村が殺された」というメールが届いていた。
 格闘技の試合の対戦相手は、「大和魂」を掲げている格闘技団『BONZ』の加藤友弥である。
 『BONZ』とは格闘技団体であり、なおかつボディガードや警備会社も兼ねており、いたって真面目で健全な組織であり、「BONZ」は「絆」を意味している。私は、対戦相手の加藤君とは、この試合の日に初めて出会ったのだが、しかしかねてより『BONZ』のことは知っていた。なぜなら私とこの『BONZ』の代表を務める伊勢野寿一と、そして今は亡き格闘家の山本KID徳郁とは、良く一緒に朝まで飲み明かした仲だったからである。KIDとイセ(・・)は、「大和魂」を掲げる格闘家エンセン井上のもとで、格闘技に励む先輩と後輩の仲であり、私は同学年の友人のKIDに、イセを紹介してもらった。
 試合結果は無残な惨敗である。
なぜ、私は格闘技の試合に出たのか?
いや、それを説明する前に、なぜ、そもそも私ごとき弱い男が、「生きる都市伝説」などとあだ名をつけられたのか?そちらを説明しなければならない。
まず一つの理由として、私が不良少年時代、カツアゲ、クスリ、レイプが横行する悪の世界にいながらも、私がそうしたことには一切、手を染めなかったからだろう。むしろ私は、そうしたことをしている者がいれば、ひっぱたいていた。
 だからいわゆる「2チャン」でも、私の喧嘩の話は尾ひれがついて語られた。
 ましてや私はけっして「関東最強」などでもなかった。
 不良少年における喧嘩の世界には、一対一のいわゆる「タイマン」というのもあるが、「組織戦」でもあるために、「喧嘩の強さ」の判定はとても複雑である。
 ヤクザ世界の喧嘩は、当然ながら組織力であり、当たり前だが「タイマン」なんてものはない。大組織の組長よりも、若い衆のほうが腕っぷしが強いのは当たり前である。そこにあるには組織力の中における権力である。
 そして不良少年の喧嘩も、「タイマン」と「組織戦」が完全に混在していた。つまり不良少年の喧嘩といっても、ヤルかヤラれるかの世界であるために、個人では弱く、やはり組織としての『関東連』や『怒羅権』が恐れられたわけである。
 「タイマン」ならば、私よりも西新宿で亡くなった金村のほうが私より強かっただろうし、「組織戦」ならば『関東連合』のリーダーであった見立のほうが私より強かった。「金村剛弘」とネットで検索すれば、彼の化け物のような肉体が見れる。
 では、「タイマン」と「組織戦」が混在する不良少年の喧嘩において、どうやって勝敗が決まるのか?
 ヤクザの世界には「掛け合い」というものがある。話し合いや交渉の中で、完全に論理をすり替えてしまって、こちら側に有利な論理で交渉を進めて、自分の利益に変えてしまう手法である。
 たとえば自分の組の若い衆が不始末を行い、刑務所に行くことになったとする。明らかにこちら側が「0対10」で分が悪く、組長が詫びに行く場合であったとしても、「よくもウチの若い衆を、長い懲役に行かせなきゃならないような真似をさらしくさって~」と、強引に論理をすり替えてしまうのである。
 そしてこの「掛け合い」は不良少年にも当てはまる。「タイマン」が強い相手には、「喧嘩はスポーツじゃない。ヤルかヤラれるかだ」と「組織戦」を持ち掛け、もしも「組織戦」が強い相手ならば、「お前も男ならば正々堂々と一対一でケリをつけろ」と「タイマン」を持ち掛け、とにかく「アドバンテージ(優位性)」を取ることができる者が喧嘩の勝者となれる。
 その駆け引きが大事であり、当時の私たち不良少年にヤクザのこの「掛け合い」を教えてくれたのが、『代紋エンブレムTAKE2』というヤクザの漫画であったのかもしれない。
 この漫画の主人公は、うだつの上がらないヤクザで、いきなり話の始まりに、大学生の応援団数名に喧嘩で負けて、「すみませんでした」と土下座させられてしまう。舎弟からも「こんな情けない兄貴で恥ずかしい」とまで言われてしまう。この事件以降、主人公の人生は何をやっても上手くいかなくなる。その十年の1989年、自分の舎弟から拳銃を渡され、対立しているヤクザの事務所に行って、ガラスの二、三枚、割って来てくれと頼まれる。「先方の組とは話がついているから、単なる帳尻合わせに過ぎない」と言われる。
 仕方なく主人公は、拳銃を握りしめて、相手方のヤクザ事務所に、窓ガラスを割りに行くのだが、相手の組事務所から日本刀などの武器を持ったヤクザが大勢出て来て、追いかけ回される。
 聞いていた話と違うのだ。主人公は川辺を逃げ惑う中、下水に通じているような鉄製の扉を見つけて開けようとするが、しかし鍵がかかっていて開かない。そこで主人公は、持っていた銃で鍵を壊して扉を開けようとする。2発、3発と銃を撃つが開かない。
 そこに追い回すヤクザたちが駆けつけてくる。慌てた主人公が銃を連射すると、銃の弾が鉄の扉に跳ね返って腹に当たり、血を流して川の中に沈んでいく。周囲には追いかけてきたヤクザたちが、「こいつ自分で撃った弾で死にやがった」と笑っており、本人もつくづく「自分が情けない」と嘆いてる。
 主人公が目を覚ますと、『東京卍リベンジャーズ』のように、過去にタイムスリップしており、大学生の応援団たちに締め上げられていた。しかし一度は死んだ身であるために、今回は、土下座して謝った前回とは異なる態度を取る。「ヤクザ相手に喧嘩して生きて帰れると思うな」と。「ヤクザの喧嘩は殺すか殺されるかだ」と脅し、二度目のこの喧嘩では、主人公ではなく、応援団側が土下座して終わる。そしてその後、主人公はヤクザの世界で大出世を遂げていく。
 この『代紋エンブレムTAKE2』という漫画が興味深いのは、喧嘩において、どういう態度を取ると喧嘩に負けるのか、そしてどういった態度を取ると喧嘩に勝てるのか、何も分からない不良少年たちに、その駆け引きを見事に教えているところである。
 不良少年の喧嘩の世界にも、駆け引きは確かにあり、その駆け引きを本能で読み解く者が勝利する。そして見立は『関東連合』という組織を率いて、一時期、東京の街を恐怖させていた。私と見立との違いは、アイツは喧嘩に勝利した相手を、街を歩きたくなくなるくらい、徹底的に肉体的にも、精神的にも打ちのめすのだが、私の場合は比較的、相手を仲間に変えていったことである。中には私が顎を折った相手であっても、相手が私のことを許してくれて友となり、結婚式でスピーチもさせて頂いたこともある。
 その友は私に言った。「オレも喧嘩で人を殴ってる不良なんだから、喧嘩で殴られて顎を折られるくらいで、文句は言えない。こんなもんカスリ傷だ」と。
 私の『ジ・アウトサイダー』でのあだ名が「生きる都市伝説」ならば、見立のネット上でのあだ名は「残虐王子」であった。人伝えで聞いた話によれば、見立は喧嘩の世界で名を覇すうちに、『関東連合』の中で独裁を振るい、力による厳しい支配体制を敷いて、「結束力」を拡大していたそうだ。
 ホントかウソか、『関東連合』に所属する者は、「私用の携帯電話」の他に、「喧嘩用の電話」を持たねばならず、その電話が鳴る時は必ず喧嘩の時であり、その電話が鳴ったら必ず喧嘩にかけつけなければならない。もしも来ない者はあとで何をされるか分からなかった、なんて噂まであった。そのために『関東連』の者と街でトラブルを起こすと、本当に一瞬で数十人の人間が集まってきた。

はき違えた強さ

「平成最強」と言われた理由

 「タイマン」でも、「組織戦」でも、東京に私より強い者がいるのだから、私が喧嘩で「関東最強」と呼ばれるのは、とてもオカシな話なのだが、しかし私はネット上でそう呼ばれた。
 なぜか?
 その理由は、私が「喧嘩」に最上の価値を見い出しつつも、しかし次第に増えていく友たちを見ながら、「喧嘩」というものがバカバカらしくなり、そしてその友たち同士を繋いだからである。
 皆、()が強いために、時に仲良くさせるのがとても困難であり、特に府中市の不良少年と武蔵市の不良少年は互いにいがみあって、仲良くさせるのにとても苦労した。「仲が悪いなら勝手に喧嘩させたら良い」と思うかもしれないが、「喧嘩」に最上の価値を見出して、絶対に喧嘩に引かない友同士を喧嘩させたら、どんな結果になるか分からない。友としてそれは避けたい。
 私たちは、「昭和51年代」ということで、不思議な結束を持つ仲間になった。その意味において、「昭和51年代」が、ある意味において「東京最強」になった。
 そこにあったのは、『関東連合』のような「組織」というより、ただ「友情」であった。
 もちろん千葉県や神奈川県の不良少年たちも、「昭和51年代」の仲間であった。ただしかし「東京最強」は、「関東最強」と言っても過言ではないかもしれないが、しかし私たちの「昭和51年代」の仲間に、アタマはいなかった。
 誰かがアタマなわけではなく、犯罪組織でもなく、皆、対等な楽しい、そして大切な仲間だった。
 しかし私の同じ年の友に、江東区の平原(ひらはら)宏一(こういち)という男がいた。
 残念ながら数年前に癌で亡くなってしまったが、この男が私のことを「アタマ」と認めたことが、いつしか私が「東京最強」、「関東最強」と言われた原因なのかもしれない。
 この平原という男は、若いながらも渡世の世界に顔が広く、どうやら大親分などとも繋がりがあり、かなりそちらの世界で「権力」を持っていたようである。そしてこの男が、密かに『関東連』の見立の面倒も見ていたようである。
 一方で平原は、地元が江東区であり、彼の地元には『怒羅権』がおり、平原は『怒羅権』のアタマとも親しかった。つまり平原は、渡世にも顔が広いばかりか、『関東連』とも、『怒羅権』とも、とても深い関わりがあったわけである。しかし彼自身も私と同じで、どこかのチームや暴走族に所属しているわけではなかった。
 いわゆる「フリョ―」の世界において、平原はかなりの権力を持っていたのだが、その平原が、「お前がオレたちの頭だ」と私を認めて、私を頭に押し上げた面が確かにある。
 どこの街でもそうだろうが、暴力と権力とカネは、けっこうイコールで結ばれるものである。だからたとえ十代の不良少年であっても、クラブイベントなどを行えば、一日で数百万円が手に入った。当時はバブルだから、パーティー券を印刷して、それをバラまくだけで大儲けができた。有名なDJとか、モデルなどをゲストで呼んで、イベントを盛り上げているヤツもいた。かなりドラッグも出回っており、モデル業界や芸能界と深い関わりを持つ者もいた。
 しかし私は、タバコもドラッグもやらず、自分からイベントで金儲けをすることもなかった。モデル業界や芸能界にも関わりがなかった。
 断っておくが、けっして「昭和51年代」の友たちは、徳少なき私を慕って集ってきたわけではない。彼らは、都会の色香に惹かれ、友情に導かれ、酒や金の匂いにつられてやってきた()ガキ(・・)ども(・・)であった。
 「桃李もの言わざれども(した)自ら(みち)を成す」、『史記』の有名な言葉だが、桃や李の木は何も語らずとも、その花や実、木陰を慕って多くの人が集まってくるために、木の下には自然に道ができる。これと同様に、徳ある人物のもとへは、多くの人が自然に集まってくるものだ。しかしもう一度、あえて繰り返すが、私の乏しき徳で、仲間たちが慕って集まってきたわけではない。
 しかし私は、少しは友たちから愛され、慕われていたようである。それは私が友たち以上に、友を愛していたからである。だから私は友と仲が良かった。
 また「徳は才に勝る」という言葉がある。たとえば『三国志』の劉備玄徳には徳があり、彼らの蜀の国には、最強の武将の関羽もいれば、智謀や知略に長けた諸葛孔明がおり、才能に優れた人が大勢いた。しかしそれらの「才」を、「徳」でもって治めていたのが、当時の蜀という国である。『三国志』のような大きな話を例え話にして、私の小さな少年時代を説明するのは、本当に恥ずかしい限りなのだが、ただ私たちの関係を説明すると、こんな感じであった。
 他県にまで影響力を持ちながら、アタマのいない「昭和51年代」の東京の不良において、なぜか私がアタマのような雰囲気が確かにあったわけである。
 そのために「海老蔵事件」や「六本木フラワー事件」によって、全国的に有名になった『関東連合』のリーダー見立の先輩であり、なおかつ「西新宿事件」で死んだ金村とは一時期、ライバルのようにも言われ、しかも同年代では崇拝されている格闘家のKIDとも親しかったこともあったことで、ネットの世界ではいつしか私が「関東最強」などと呼ばれたのだろう。
 しかしそんなはずがない。
 こうして私は、第一回の『ジ・アウトサイダ―』の大会で、「生きる都市伝説」などと呼ばれたわけである。
 さらに2021年に、前田日明さんの『YouTube』に出演していただいた際には、動画のタイトルは、「平成最強の不良・与国秀行と肉めし かとうに行ってみた」となった。
 いつの間にやら「関東最強」から「平成最強」へと大出世である。
 『肉めし かとう』というのは、『ジ・アウトサイダー』の試合で、私と対戦した加藤君が、東京上野で経営しているハンバーグ屋さんである。美味しいお店であり、彼もたまに店に立っているので、ぜひ行って頂きたい。謙虚で礼儀正しい男である。

はき違えた強さ

人間は闘犬ではない

 そもそも男とは何なのだろうか?
『塀の中の懲りない面々』の映画や小説でお馴染みの作家の安倍譲二氏は、小学校の頃は「神童」ともてはやされ、有名進学校『麻布中学』に進学するも、しかし一流中学の勉強にはついていけず、成績は45人のクラスの中で38番だった。
「ああ、オレは劣等生なんだ。オレの後ろにはたった7人しかいないのか」と安倍氏が思ったら、その後ろの中の1人には、のちに総理大臣になる橋本龍太郎氏がいたという。
劣等感にさいなまれた中学生の安部氏は、戦後の渋谷で喧嘩に明け暮れ暴れまわっていた。そんなある時、当時、渋谷で安藤組という愚連隊を組織していた安藤昇という男と出会い、彼はこう言われたそうだ。
「坊や、そんなつまらない喧嘩をしていてもつまらないだろう。それだったら、いっそ男を売る稼業をやってみないか。」
 この時、もし「俺の子分にならないか?」とか、「ヤクザにならないか」とか、「安藤組に来ないか?」とスカウトされていたら、絶対に安倍氏は断ったそうだが、しかしこの「男を売る稼業」という不思議な言葉に惹かれ、安部氏は安藤組に出入りするようになる。もちろん学校はクビになる。
 皮肉にも安倍譲二氏は、歌手さだまさしさんの「雨宿り」という曲を聴いて、不思議な感覚になって、「堅気になろう」と決意したという。そしてなぜかこの「雨宿り」という曲は、尾崎豊もカバーしているし、『湘南之風』の若旦那もカバーして歌っている。
 若旦那は、どこかのインタビューで自分が不良少年をやめる理由として、私のことを挙げているために、あえて彼のことも少しだけ語らせてもらうが、実は彼も「昭和51年代」の不良少年の仲間であった。しかしもちろんのこと若旦那は、『関東連』とも、『怒羅権』とも、どこの反社とも何ら関わりがない。彼は、いたって健全で真面目な?(笑い)な優しく面白い男だ。
 安倍氏が渋谷で暴れまわっていたあの頃から、数十年の月日が流れて、私たち不良少年も同じように渋谷や新宿で暴れまわっていた。まるで闘犬のように。
 動物には、自分や飼い主を守るために「戦いの本能」がある。だから本当は犬が望んでいなくても、闘犬場に連れだされて、そして目の前に敵と見えし闘犬が現れたら、自分や飼い主を守るために命がけで戦わなければならない。つまり闘犬は、動物としての「戦いの本能」から、ただ戦わされているのである。
 闘犬の生涯は本当に悲惨である。引退した老犬は『噛ませ犬』として使われ、若い犬の訓練用として利用される。こんな野蛮なことが、未だに日本でまかり通っているのだ。
 格闘家のKIDが出演していたとあるテレビ番組で、闘犬と飼い主が出てきて、その飼い主は、「犬に7kgほどの重りを首に捲いてベルトコンベアーで走らせている」と語った。
 するとKIDはキレてこう言った。
「飼い主も会場でやればいいのにね。飼い主対飼い主」
 すると飼い主も、少し怒り気味に言い返した。
「犬を戦わせる時は、飼い主も土俵にあがって、犬と一心同体で戦っている」
 これが正義感の強いKIDをさらにキレさせた。
「あーじゃなくて、飼い主が殴り合えばいいんじゃないの?」
「それはKIDさんにやってもらって…」
「いや、僕は誰かに命令されてるわけじゃないから!ルールがあってやってるから」
「いや、僕もルールの上で戦ってますよ。さっきの動画みてもらっても分かる通り、(闘犬は)しっぽ振りながら戦ってるんですよ。喜んでる」
 KIDもピッドブルという犬を飼っており、アイツはいつも犬を家族のように愛していた。だから怒りを抑えつつもアイツは静かに言った。
「尻尾振ってるからって喜んでるわけじゃないよ!本当に無知だな!」
 KIDは、テレビの画面やリングの上からは伝わらないが、本当に優しく、面白く、そしてアホで、熱い男だった。
 オレたち男にも、犬と同じく「戦いの本能」がある。けっして男尊女卑しているわけではない。
 女性の中にも男性的で、「戦いの本王」を持っている方はおられ、もしも戦いたい方がいれば戦えば良い。実は日本の歴史には女性の武将も多く、たとえば『平家物語』に登場する(ともえ)御前(ごぜん)などがそうである。
 『平家物語』によれば、巴御前は「色白く、髪長く、顔まことに優れたり」とある美しさを賛美される一方で、「一人当千の兵者(つわもの)なり」と記されており、一人で千人の兵に値する勇ましき女性武将であったことが記されている。だから私は「女性だから」、「男性だから」と縛るつもりはない。それにもちろんのこと、「育児に、家事に、仕事において女性も戦っている」と表現できる。
 しかし女の子がぬいぐるみを喜ぶ一方で、男の子がヒーローごっこや戦隊ものに喜びを見い出すように、「戦い」というものは、やはり全体的に見れば、女性よりも男のほうが適している。
 男女は平等に等しい存在だが、しかしたしかに男女には肉体に違いがあるように、魂にも違いがある。女性の魂を「しなやかに柔軟に曲がる枝のように」と表現するならば、男性の魂は「プライドが高いだけ頑固で折れ易い」とも表現できる。だから男性のほうが、プライドが高い分だけ、女性よりも自殺し易い。「男性のほうが女性より強い」とは、必ずしも言えないわけである。
 その男女の肉体と魂の違いを互いに補完し合い、協力し合うからこそ、素晴らしい家庭や社会が築かれるのではないだろうか?
 こうしたことを踏まえた上で述べると、男には「戦いの本能」が備わっていると言って過言ではない。なぜなら男性のほうが頑固でプライドが高く、また女性の肉体よりも、男の肉体のほうが格闘技や戦闘に適しているからだ。

はき違えた強さ

火事と喧嘩は粋な江戸の華

 ただしかし、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、それは町人のことであり、しかも江戸っ子は粋でなければならなかった。だからこの「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は、けっして殺し合いの喧嘩を意味しているわけではない。
 たしかに火消しの『め組』と力士との喧嘩が、江戸時代のエピソードとして残っているが、しかしもしも腰に刀をさした侍が喧嘩した場合、有無を言わさず「喧嘩両成敗」となり、最悪の場合は切腹させられることもあった。
 ちなみになぜ「火事が江戸の華」と言えば、かつての江戸町人の多くが、長屋に住んでおり、一たび火の不始末で火事が起こると、一気に長屋中に燃え広がってしまった。そこで「火消し集団」が組織され、彼らの多くが鳶職人であった。火消し衣装はお神輿(みこし)を担ぐような粋な半纏(はんてん)であり、半纏の表はどこの組の者か分かるシンプルなデザインなのだが、しかし裏は歌舞いた派手で美しい装飾が施されており、リバーシブルで着ることができた。
 しかも「消化活動」といっても、火の()(やぐら)という高い所に設置されてある鐘を鳴らし、消防隊に動員をかけ、そして火消し衆は、大きな金づちで家をぶっ壊しながら鎮火させる荒業であった。その消火活動の際、6メートルほどの梯子(はしご)を高く垂直に掲げて、鎮火が終わるとその梯子の上で、鳶職人たちが見事な技を披露した。そして江戸の町人は、火消し職人たちに拍手喝采を送ったのである。
 その火消し職人の『め組』などが、芝居小屋で力士と粋に喧嘩をしていたエピソードが残っているわけである。だから「火事と喧嘩は江戸の華」といっても、刃傷沙汰ではなく、殺し合いでもなかった。
 もちろん当時は武士の時代だから、お上に届けを出せば、「果し合い」、「決闘」することは許されていたが、しかし「果し合い」と「喧嘩」はまったく異なるものである。
 侍たちは、「日本刀」という世界で最も切れる刃物を腰に下げ、そして「心・技・体」として日々、己の心を練り上げ、技を磨き、肉体の鍛錬を続けながらも、実は人を切った経験がある者は少なかった。たとえば江戸中期に、赤穂浪士四十七士が、主君の仇討で吉良邸に討ち入りを果たす時、人を切った経験があるのは、高田馬場の決闘に助太刀したことのある堀部(ほりべ)安兵衛(やすべえ)ただ一人だけであった。
 もちろん江戸時代にも、殺し合いの喧嘩をする博徒(ばくと)、いわゆるヤクザはおり、有名なのは「東海道一の親分」と言われた清水の次郎長である。しかし清水市において、今も次郎長が親しまれているのは、晩年の清水の次郎長がヤクザをやめて堅気となり、明治維新にも貢献し、なおかつ清水市の発展にも力を注いだからである。
 つまり、かつての私たち不良少年は「喧嘩」というものに、最上の価値を見出していたわけだが、しかしかつての日本人はまったくそうではなかった、ということが分かる。
 この「違い」は何か?実はこの「違い」を探っていくことで、「真の強さ」というものを、私たちは見つけ出せるのである。

大和魂と武士道について

大和魂対決

 奇しくも私が『ジ・アウトサイダー』の試合に出場した時、加藤君が所属する『BRONZ』も「大和魂」を掲げていたが、しかし実は私も「大和魂」を掲げていた。
 カッコ悪いかもしれないが、試合前の控室では、お手製の『大和魂』という小冊子を周囲の人に配っていた。
 実は金村の葬式の日も、カッコ悪いことを知りながらも、私は「喧嘩とは別の価値観を持って欲しい」という一縷の願いを込めて、『関東連合』や『怒羅権』の者たちにも『大和魂』の小冊子を配っていた。その小冊子の内容は、本書の後半におさめられている。
今、多くの日本人が「大和魂」というこの言葉を、まるで軍国主義や国粋主義か何かと同じものと考えている。しかし『源氏物語』に出てくる「大和魂」という言葉も、我が子をどの様に育てたら良いのか悩んでいる主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、均整の取れた調和的な心を身に付けさせてあげたいとして、その心のことを作者の紫式部(むらさきしきぶ)は「大和魂」という言葉で表している。あるいは『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』で使われている「大和心」も、やはり軍国主義などとは、まったく違う使われ方をしている。
 真の大和魂とは、軍国主義や国粋主義とは、まったく異なるものであり、かつて日本が「大和の国」と呼ばれ、聖徳太子が『十七条憲法』の中で「和をもって貴しなし」と述べられたように、「平和」と「大いなる調和」を重んじる心、それが真の大和魂なのである。
 私は「真の大和魂とは如何なるものか」ということを明らかにするために、あの試合に臨んだのである。
 だからあの試合は、実は「大和魂対決」だった。
 そして結果は惨敗に終わったのだが、その時の気持ちを、私はこう詠んだ。
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」
 これは幕末の志士である吉田松陰が詠んだ句である。
 かつての幕末に黒船がやって来た時、吉田松陰は「このままでは日本が滅んでしまう」という危機感を持ち、「日本の将来のために世界を見て勉強したい」と考えて、黒船への密航を企てた。しかし密航は失敗に終わり、吉田松陰は「どうせ捕まる」と考え、誠の心を貫いて、潔く、あえて自ら幕府に出頭し、自首した。そして護送される際に、泉岳寺を通り過ぎた。
 泉岳寺には赤穂浪士四十七士が眠っている。主君の仇討のために吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を取って切腹して果てた、大石内蔵助をはじめとする47人の侍たちである。彼らは主君の仇討を成せば、たとえ討ち入りが成功したとしても、最終的には切腹させられることが分かっていた。しかし死ぬことが分かっていたけれども、それでも彼らは、主君への忠義のために、あえて仇討を行い、そして切腹して果てたのである
 つまり吉田松陰は「密航などしようとすれば失敗して、幕府に捕まることは、分かっていたけれども、しかし私の大和魂は已むことがないために行った」と、自身の心境と赤穂浪士の心境を重ね合わせたわけである。そのために彼は、泉岳寺を通り過ぎる際に、「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」と詠んだのだ。
 死を懸けて黒船に密航することに比べれば、体を張ってリングの上にあがることなど何ともない。そのために私は、ルールすらろくすっぽ知らずに、あえてリングにあがった。その気持ちはまさに、「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」であった。
 では、なぜ私は「大和魂」を掲げて、試合に出たのか?
 それは「真の人間の強さ」というものを、一人でも多くの方に、一緒に考えて頂きたかったからである。私の力不足のために、見立に「真の強さ」を教え、届けることができず、「六本木フラワー事件」が起きてしまったが、私の想いは今も変わらない。想いは今もあの時と同じ、「甦れ、大和魂」である。

大和魂と武士道について

かつての侍は始末に困った

 清水の次郎長がヤクザをやめて堅気になるにあたり、深い影響を与えたのが山岡鉄舟という侍にして思想家であった。
 江戸時代において、倒幕側の西郷隆盛と幕府側の勝海舟が話し合いを行い、「江戸城の無血開城」が行われたわけだが、もしこの「無血開城」が行われなければ、江戸は火の海と化して、多くの江戸の人々が戦火に巻き込まれて、命を落としていたかもしれない。
 だからこの西郷隆盛と勝海舟の話し合いは、歴史に遺る偉業なのだが、この「江戸城無血開城」の陰の立役者こそ山岡鉄舟と言われている。
 なぜなら江戸幕府に仕える山岡鉄舟が、清水の次郎長の手引きで、死を覚悟で大群を率いる西郷隆盛のもとに行き、勝海舟との話し合いを実現させたからこそ、「江戸城無血開城」が成立したからである。進軍してくる敵勢力の中に飛び込んでいくことは、並大抵の勇気と覚悟がなければできない。
 そのために西郷隆盛は、山岡鉄舟に対してこう述べた。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。
 この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」
 「始末の困る者」、それはお金とか、地位とか、名誉とか、そんなものには見向きもせず、「自己保身」など少しも考えない、そればかりか、信念のためならば簡単に命さえ投げ出せる、「自己保存欲」さえも持ち合わせていない者のことである。
 金銭や権力や地位や名誉を求める欲深い者、あるいは自己保身のままに生きる者というのは、簡単に信念を捻じ曲げれるばかりか、誰かに利用されてしまう。そのためにそうした人間は、どうしても信用もできない。だから「たとえ天下国家に対する志が同じであっても、無欲で、かつ自己保身も、自己保存欲さえも持ち合わせていない者でなければ、同志としては一緒に戦えない」と、西郷隆盛は述べたわけである。
 「信念の塊のような者」というのは、どうすることもできないために、まさに始末に困る者である。
 そして実際に、西郷隆盛と共に、「倒幕」という同じ志を持った坂本龍馬は、追われる身となり、金銭もろくに無くなって、西郷隆盛の嫁に、「使い古しでいいから(ふんどし)をくれないか」と頼んだことがある。その話を聞いた西郷隆盛は、「彼は国家のために天下を奔走(ほんそう)している人であるから、新しいのを買って差し上げなさい」と、言ったそうである。
 その幕末の英雄である坂本龍馬も、よく人にこんなことを述べていたそうだ。
「人は事を成すために生まれてきた。
 しかしこんな時代だ。志半ばで命尽きることもあるかもしれない。
 ならばたとえドブの中で命尽きようとも、前のめりで死んでいきたい」
 このように、かつての日本人の中には、「始末に困る者たち」がたくさんいた。
 しかし先の大戦に敗れると、終戦からわずか数年後には、安倍譲二氏は渋谷で暴れまわり、安藤組の組長から、「坊や、男を売る家業についてみないか?」と言われるわけである。そしてさらにその数十年後には、私や見立も、まったく違う意味の「始末に困る者」となってしまい、東京をはじめとする関東で暴れまわっていたのである。
 しかし実はこの「違い」は、単なる偶然ではない。
 今こそ日本人は、この「違い」の謎を知らねばならない。

大和魂と武士道について

神の形見の大和魂

 では、「大和魂」とは何か?
 大和魂の詳しい説明は本書の後半に譲るとして、簡単ではあるが「大和魂」を説いてみたい。
 今も日本風のものを「和風」と呼ぶように、日本は「和の国」である。
 聖徳太子が十七条憲法の第一条で、「和を以て(とうと)しと()し」と述べられたように、(いにしえ)より日本は「和」を何よりも重んじてきた国である。
 「和」とは平和の和であり、調和の和のことであり、「和」には、家族の和、友人同士の和、社会の和、そして世界の和、さらには心の和など、実に様々な「和」がある。
 ゆえに戦前まで日本では、「わたし」という言葉を、「多くの志を和する己」という意味から、「和多志(・・・)」と表記することもあった。すなわち、かつて和の国である日本において、「わたし」という言葉そのものに、個人主義的な意味合いではなく、むしろ調和的な意味合いが含まれていたわけである。
 そして大いなる調和を愛する心、それが「大和心(やまとごころ)」、あるいは「大和魂(やまとだましい)」である。
 かつて日本は「大和の国」と呼ばれ、日本人は自らを「和人(わじん)」と称し、「大和(やまと)(たみ)」とも呼んだ。
 では、真の大和魂とは如何(いか)なるものか。
 かつてこの国に「幕末(ばくまつ)」と呼ばれる激動の時代があったが、その時代をたとえに使って、「大和魂」を少しだけ説明してみたい。
 当時の日本は、「(はん)」と呼ばれる個々の国が立ち並び、「身分」による格差があり、人間が持っている底力、個性や能力を、思う存分、最大限に発揮することはできなかった。才能や努力よりも「家柄」があらゆることを決めた。
 それは何とも面白くない時代であり、それでは国が栄えることもない。
 そんな時代に、米国からマシュー・ペリー提督が黒船を率いてやってきた。しかも江戸幕府は弱腰で、天皇陛下の許しである「勅許」を得ずに、勝手に不平等な条約を結んでしまった。
 「日米修好通商条約」である。これは外国人が日本で犯罪を犯しても、日本の法律で取り締まれず、なおかつ外国製品に対して税金がかけられなかった。
 今も日本人の中には、「関税が無くて、外国から安い製品がたくさん入ってくることは、消費者にとって良いことだ」と考える人は多いかもしれない。しかしそれでは、日本のお金は、どんどん海外に垂れ流れていってしまう。また同じ製品を日本で作っている製造者にとってはマイナスである。関税が無いと、やがて失業者が増えて、日本国内の全体のお金は減ってしまうわけだ。そのために関税というものは、その国の製造業、経済を守るためにも大切なわけである。だが、江戸幕府は「関税の撤廃」を勝手に許してしまった。
 つまり「日米修好通商条約」とは、「領事裁判権」と「関税自主権」の喪失という意味で、かなり日本側にとって不平等な条約であり、外国に脅かされて強引に結ばされた条約であった。
 そのままでは日本も、隣の清国(しんこく)のように欧米列強に徐々に侵略され、植民地にされてしまうことは、先見力のある侍たちの目には、もはや歴然であった。
 そしてこの時代にも、多くの方々が生きていた。たとえば、「(げい)」の道に生きる歌舞伎役者や噺家(はなしか)もいた。今で言えば芸能人である。「(わざ)」に生きる相撲取りもおり、今でいえばスポーツ選手である。あるいは「渡世(とせい)」に生きる清水次郎長や黒駒勝蔵などもいれば、「()」の道に生きる武道家もいた。
 その他にも幕府を守ろうと立ち上がった方々もいた。彼らは幕府を倒さんとする勢力と命をかけて闘った。彼らがその時代の秩序と調和を守るために闘ったことを考えると、彼らもそれなりに「和」に生きたと言える。有名なところでは「新選組」などがそうだろう。
 しかしその一方で、欧米列強の侵略から日本を守るために、弱腰な江戸幕府を倒し、不自由な面白くない時代を打破して、「身分」や「家柄」ではなく、努力した者は報われる豊かで強い日本を造ろうと立ち上がった方々がいた。それが吉田松陰や坂本龍馬や西郷隆盛などである。
 幕府を守らんとする勢力が、「和を守ろう」と生きたとするならば、「和を一度打ち崩して、新たなより大きな和を創り出し、素晴らしい時代を切り拓こう」と闘った方々は、当然ながら「和」に生きたのではない。
 彼らが生きたもの、それこそ「大きな和」、つまりは「大和(やまと)」である。
 すなわち「和」を何よりも貴むがゆえに、「小さな和」を打ち崩してでも、「より大きな和」を打ち立てようと大調和を求め続ける心、これこそが日本古来より伝わる「大和の心」である。
 目の前の秩序が倒れていく時、何が正義で、何が悪なのか分からなくなることがある。しかしその正義を見抜く智慧(ちえ)を持ち、勇気をもって行動し、断行し、より多くの人々が幸せに暮らせる時代を築き上げていく愛の心、それが大和の心であり、これこそがかつて「大和の国」と呼ばれた日本の心なのである。
 「大調和を求め続ける美しき心」、これこそが「()()ろば」とも称されてきた(うま)し国、日本の精神なわけである。
 とにかく「秩序」と「調和」を守るところにこそ、「正義」があるように思われがちであり、「秩序」や「調和を「破壊」することが「悪」である、と考えられがちである。しかし「調和」とは「停滞」を意味するものではない。「調和」と「秩序」を創造的に破壊することによって、より大きな調和が生み出されることもあるわけだ。
 ただし「大和魂」とはテロリストの精神ではない。たとえばカール・マルクスは、「理想を実現するためには手段として暴力も仕方がない」という革命思想を説いた。しかし「理想」という永遠に存在し続けるために、それでは暴力の連鎖になってしまう。実際にマルクスの思想によって建国された国は、どこもかしこも暴力的な独裁国家になってしまった。マルクス思想に染まった中国の毛沢東も、「革命は銃口から生まれる」と説いたが、結局、中国は今も暴力が連鎖し続けている。
 しかし理想と共に手段も正しくなければならず、大いなる調和を創り出していく心、それこそ大和魂なのである。

大和魂と武士道について

大和魂を授けていた武士道

 幕末の女流歌人にして、志士たちのカリスマ的存在であり、母のような存在でもあった女性に野村望東尼(のむらぼうひがしあま)という方がいるが、彼女は次のように詠んだ。
()が身にも ありとは()らで (まど)ふめり 神のかたみの やまとだましひ」
 つまり野村望東尼という方は、「本人は知らずとも、誰の心の中にも神の形見のように必ず大和魂が備わっている」、そう述べたわけである。
 幕末の志士である高杉晋作は辞世の句として、こう呼んだ。「おもしろき こともなき世を おもしろく」と。 そして野村望東尼は、この辞世の句に下の句をつけて、こう詠んだ。「住みなすものは 心なりけり」と。
 高杉晋作が述べたように、いつの時代であっても、つまらない時代をおもしろい時代へと変えていかねばならない、しかしそれは野村望東尼が述べているように、誰の心の中にも神の形見としてある大和魂なのである。
 この大和心、大和魂が、日本人お一人お一人の心の中にあったからこそ、この日本という名の龍の落とし子のような形をした国家は、これまでいつでも外国の脅威を打ち破り、そして日本を発展、繁栄させるばかりか、他国の方々をも愛し、(いつく)しみ、労り、思いやることで、優しくも勇ましい歴史を刻んでくることができたのである。
 では、いかにして日本人は、神の形見とも言える「大和心」、あるいは「大和魂」を開花、発現させてきたのか。
 明治から大正、昭和にかけて世界的に活躍された日本人に、新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)という方がいる。彼は外国の教授から、「それでは貴方の国には宗教教育はないと、そうおっしゃるのですか?」と、そのように質問された。そこで新渡戸は「ありません」と、きっぱりと答えた。
 するとその外国の教授は、「宗教教育無しで、どうして人々に道徳を授けることができるのですか?日本人は何を基準に物事の善悪を学んでいるのですか?」と驚き、少し怒り気味に言ったそうである。なぜなら外国では、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などが、人間に善悪を教えて道徳を与えてきたからである。
 外国の方にそう問われて、それから新渡戸氏は、「自分たち日本人はどのようにして道徳を得て、何に基づいて物事の善悪を学んでいるのか」、それを考えてみた。
 そして彼はやがて、「日本人(・・・)()()武士(・・)()教育(・・)()ある(・・)」ということに気が付いた。
 こうして彼は、日本人を外国の方々に理解してもらおうと、『Bushido:The Soul of Japan』、邦題『武士道 : 日本の魂』という書物を世に著した。
 日本人の「大和の心」を育んできた教育、それが「武士道」である。
 では、武士道とはいかなるものか。
 西郷隆盛から「始末に困る者」と言われ、ヤクザの清水の次郎長の人生に対して、大きな影響を与えた山岡(やまおか)鉄舟(てっしゅう)は次のように述べた。
()士道(しどう)とは神道(しんとう)にあらず、儒道(じゅどう)にあらず、仏道(ぶつどう)にあらず、()士道(しどう)とは神儒仏(しんじゅぶつ)三道(さんどう)融和(ゆうわ)道念(どうねん)
 それでは、この山岡鉄舟の言葉を解説してみたい。たとえば儒教の祖である孔子はこう述べた。
(あした)に道を聞かば夕に死すとも可なり」
 つまり孔子という方は、明日の朝に人間が生きるべき正しい生き方を知り、そして自分がそれを体得することができれば、その日の夕方に死んでしまっても自分は構わないと述べたわけである。古来より、人類は「人間としての正しい生き方」に対して、「道」と呼んできた。
 「剣道」や「茶道」に「道」がという言葉がついているのは、「剣」や「茶」を通じて、人生に対する学びを深め、「人間としても成長していこう」という想いが、その中に込められているからである。
 そして「道を求めて学ぼうとする想い」のこと、「求道心(ぐどうしん)」と言い、また「道念」とも言う。
 つまり山岡鉄舟という侍は、「武士道とは、日本独自の宗教である神道(しんとう)そのものでもなければ、中国発祥の儒教(じゅきょう)そのものでもなければ、あるいはインドやネパールで興った仏教そのものでもない。武士道とは、これら三つの神道、儒教、仏教が融和したものであり、これらを学ばんとする求道心の先にあるもの、それが(まこと)の武士道なのである」と、そう述べたわけである。
 別の表現をするならば、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ一つの神を信仰する兄弟宗教でありながらも今もなお争っているが、しかし武士道とは、神道、儒教、仏教というこれらの異なる三つの宗教が、この和を重んじる大和の国において、奇跡的な融和を実現させることによって完成したものであり、ゆえに侍精神とは、神儒仏これら三つに対する求道心(ぐどうしん)である」と、そう述べたわけである。
 実は新渡戸氏も『武士道:日本の魂』という書物の中で、やはり「武士道は仏教、儒教、神道の影響を受けて形成されている」という答えを導き出しており、山岡鉄舟と似た結論に至っている。
 結論から先に述べるが、武士道の源流には、古来より日本に伝わる神道があるが、しかしこの武士道に対して、中国の儒教、さらにインドの仏教が多大な影響を与えてきたことはまず間違いない。
 そしてこの武士道こそが、たしかに日本人の神の形見の大和心、大和魂を、見事に開花させてきたのである。
 武士道とは、日本人に施されてきた教育であり、そして人間が探求すべき学問である。
 しかしその武士道が失われ、神の形見の大和魂が眠り続けているがために、私たちは「戦いの本能」を持て余らせ、その結果、ある者は「喧嘩」に最上の価値を見出し、そして見立は海外に逃亡したのである。

大和魂と武士道について

行われた日本人改造計画

 実は日本は、1945年に米国との戦に敗れ、7年間に渡ってGHQ(連合軍)の占領下に置かれた。安倍氏の生年月日は1937年だから、彼が十五歳を迎えた1952年に、ちょうどGHQ占領軍は去っていくのである。GHQとは、戦争に勝利した米国やイギリス、ソ連などの連合国軍のことで、実質上、このGHQは米国の傀儡組織であった。
 そして実は日本人は、このGHQによって改造されたのだ。だから「大和魂」は偶然、失われたのではなく、意図的に奪われたのである。武士道は意図的に解体されたのである。
 あくまでも見立が行った犯罪は、見立の責任だが、しかしGHQとまったく関係が無いとは言い切れない。なぜならGHQおよび米国による、「日本人改造計画」が確かに存在していたために、武士道が解体された結果、日本の男たちは「大和魂」を眠らせ続けて、「真の強さ」を見失ってしまったからである。
 では、なぜ「日本人改造計画」は行われたのか?
 それはあまりにも日本人が強すぎたからである。
 たとえば先の大戦中、1941年12月から1942年6月までの半年間、「フィリピンの戦い」というものがあった。この戦いは、GHQ連合国軍の全部隊が降伏して戦闘は終了した。
 そしてGHQのトップであるダグラス・マッカーサーは、「I shall return(必ずや私は戻るだろう)」と口にしてフィリピンを去った。これはマッカーサーの軍歴の中でも、数少ない失態であり、まさに敵前逃亡であった。
 彼は、「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」とまで言われた。また、「I shall return」というこの言葉は、当時の米兵の間では、「敵前逃亡」という意味で使われたのだ。
 あるいは日本人の命を顧みない特攻攻撃によって、かなりの米兵たちが戦意喪失し、「カミカゼノイローゼ」に陥る者さえ大勢いた。特攻が開始された後に、米空母『ワスプ』の乗組員123名の健康検査を行ったところ、まともに戦闘を行える者はわずか30%で、他の米兵はすべて精神的な過労で休養が必要な状態だった。
 特攻、あるいは玉砕して散っていく日本人もいれば、その一方で、映画にもなった「硫黄島の戦い」にもあるように、弾無く、水無く、食糧も無く、灼熱とガスの噴き出す地獄の環境の中で、最後の最後まで徹底抗戦して戦い続ける日本人もいた。
 日本人は強かった。強すぎた。だからこうした不撓不屈の精神、大和魂は意図的に抜き取られたのである。 米国GHQによって、武士道は意図的に解体されたのである。
 これから詳しく述べていくが、「日本人改造計画」は確かに存在していた。たとえばGHQ占領中の1946年に公開された『はたちの青春』という映画で、佐々木康監督はGHQに呼び出されて、映画に「キスシーン」を入れるように命令された。
 この映画が日本初のキスシーンがある映画なわけだが、GHQがキスシーンを映画に入れるように命じたその理由は、何とも日本人をバカにしたものであった。彼らの言い分によれば、「日本人は恋愛、情愛の面でも、コソコソすることなく、堂々と自分の欲望や感情を人前で表現することが、()()()()()()()()()()()()()であり、日本人は恋愛や性に対して奥手だから侵略戦争なんてことを行ったのだ」といったものであった。
 キスシーンの撮影に臨んだ女優さんは決死の覚悟で挑み、演じるに2人の唇の間には、オキシドールを染み込ませた小さなガーゼを挟んで撮影された。今の日本人の貞操感覚とは、まったく異なっていたことは事実なのである。そのために当時の日本人は、そのキスシーンに大興奮して、映画館は連日の満員となった。
 今、日本の映画で当然のごとくキスシーンがあるのも、若者が人前で平然とキスをするのも、すべては彼らによる思想改造の工作の賜物であり、戦前の日本人の価値観からすれば、「はしたない」、「破廉恥」、「恥ずかしい」というものであった。
 芸能人の不倫問題がよく騒がれているが、しかし戦前の日本には「姦通罪」というものがあり、結婚している妻や夫が異性と性的行為を行うことは、実は法律的に犯罪だったのである。ただしこの法律は男尊女卑の部分がかなりあり、男性の場合はW不倫のみ犯罪とされた。
 しかしたしかに言えることは、戦後の日本は硬派な日本男児が減って、ナンパな日本男子が増えたことである。いや、そもそも「硬派」、「軟派」という言葉さえ、すでに死後である。
 つまり日本人の性意識は、心理工作の結果、意図的に変えられたのである。この事実を見ても、日本人の思考が変えられていることは明らかである。米国およびGHQに「性教育の指導」など受けずとも、私たち日本人は男女が愛し合い、家庭を営み、子孫繁栄を続けてきたことは間違いないが、かえって「性の乱れ」が日本の子孫繁栄を阻害している面もあると言えるだろう。
 このように、日本人は精神を意図的に変えられてである。
 私の中学時代のとある後輩で、もともとは『関東連合』に属し、その後、ボクシングで日本ランカーになった男がいる。彼は引退後も後輩のボクシング指導を行い、子どもたちに野球を教えたり、良き父として、良き夫として、真面目な堅気の暮らしをしている。たとえ彼について、「元『関東連合』だった」と聞かされても、おそらく多くの人が驚き、その面影はどこにも感じないだろう。アスリートのスポーツマンにしか見えないのだ。
 ある時、彼を別の友人に紹介して、私がその友人に「実は彼は元『関東連合』だった」と教えると、その話を聞いた友人は驚き、関心してこう言った。「ええ~!!人と変わるものなんですね~」と。
 しかし私はその友人に、さらにこう言った。「いや、アイツは暴走族やって喧嘩していた時から、ああだった」と。その私の言葉に、さらにその友人は驚いていた。元不良少年の中には野球やサッカーを通じて、監督やコーチ、上級生や下級生に対する礼儀礼節を学んでくる者が多い。
 私は自分の過去を、別に他人や社会に責任転嫁するつもりなど、毛頭ない。人間という生き物は、過去は過去として受け入れ、よっぽどのことがない限りは、原則として「すべては己の自己責任であった」と考えるべきである。
 しかし私たち不良少年が、「喧嘩」という暴力に無上の価値を見出し、まるで闘犬の如く、「戦いの本能」によって戦っていたことには、やはり原因があった。
 問題は、「武士道」が解体され、「大和魂」が眠らされ続けていることであった。
 そしてそれは、単なる偶然ではなく、日本人が強すぎたために、意図的に行われたことであり、今、ここで日本人が、現代に武士道を取り戻し、大和魂を甦らせなければ、日本は滅びるだろう。

大和魂と武士道について

学問と教育の本質

 しかし本書はけっして、元アウトロー、もしくは今現在フリョ―の方々にのみ、「強さ」について考えていただきたいものではない。東大、京大、早稲田や慶応を出られた方々にも、「真の強さ」をご理解いただきたく、書いているものである。
 しかし本書は、ある意味において結果的に、「一流の知識人」と言われる方々に対して、喧嘩を売ってしまっているかもしれない。けっして私は、意図的に喧嘩を売るつもりはないのだが、結果的には、喧嘩を売っているかもしれない。
 それはどういうことか?
 今から二千五百年くらい昔、哲学者ソクラテスの友人が、ギリシャのアポロン神殿に行って、「ソクラテスに勝る知者はいるか」 とお伺いをたてたところ、 巫女は 「ソクラテスに勝る知者はいない」という「神託(しんたく)(神のお告げ)」を受けた。
 しかしその神託を友人から伝え聞いたソクラテスは、自分のことを「無知である」と考えていたために、「そんなはずはない」と思った。しかし彼は「神託にウソがあるはずがない」と考えて、当時のギリシャにおいて、有名な知識人たちのところを回って、いろいろと質問してみた。するとソクラテスは一つの結論に達した。
「知識人と言われている方々は、たしかに様々なことを知ってはいた。
 しかし私が彼らに「愛」とか、「正義」とか、「霊」とか、そういった本質的なことについて質問すると、彼らは、ただ言葉を詰まらせるばかりだった。だが彼らは、『自分は知者だ』と考え、自分が無知であることを知らなかった。
 しかし私は『自分は知らない』ということを知っている。
 『自分の無知』を知っている点で、どうやら私のほうが彼らより知者であった。
 ゆえに神託は正しかった」
 これが有名な「無知の知」である。その後、ソクラテスは人々の前で「知者」と名乗る者たちに質問をしながら、次々と論戦で打ち負かしていった。すると彼は、ギリシャの首都アテナイにおいて、若者たちから絶大な支持を得た。
 しかしやがてソクラテスは、「無知の知」を受け入れられない知識人たちから恨まれ、妬まれ、「多くの若者たちを惑わしている」と疑いを掛けられ、処刑されてしまった。
 そんなソクラテスは、こんな言葉を残している。「真の英知は己の無知を認めることである」と。つまりソクラテスは、「自分は知っている」と自惚れると、かえって英知から離れてしまい、むしろ「自分は無知な人間だ」と自覚し、なおかつ向上心を持って、「少しでも知を富まそう。より賢くなろう」と努力することによって英知に近づいていく、そう述べたのである。
 ここで重要なことは、賢者ソクラテスが「英知」という言葉を使っていることである。「英知」、それは「人としての賢さ」を意味し、それは仏教で言う「悟り」にも通じるものがある。
 そしてソクラテスの弟子プラトンは、「アカデミー」を創設し、哲学、学問を人々に教えた。
 では、「学問」とは何か?
 儒教の孔子は言われる。「吾、十五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして(みみ)(したが)い、七十にして心の欲する所に(したが)へども(のり)()えず」と。これは「私は十五歳の時に学問に志を立てた。三十歳になって学問の基礎ができて自立できるようになった。四十歳になると心に迷うことがなくなった。五十歳になって天が自分に与えた使命が自覚できた。六十歳になって人の意見を素直に聞けるようになった。七十歳になると自分のやりたい思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった」という意味である。
 儒教には、自らの言葉と行動を治める「修身」ということが、非常に重んじられている。そして孔子が「十五にして学を志し、七十にして心の欲する所に(したが)へども(のり)()えず」と述べているように、孔子は「十五で学を志し、七十で修身を完成させた」と言っているようにも受け取れる。
 これらの言葉からも分かるように、本来の学問というものは「修身」を目指し、そして「人間完成への道」でもある。それは「英知」を重んじたソクラテス、あるいは「大学」にも似た「アカデミー」を創設したプラトンもおそらくは同意見であろう。
 そもそも「大学」というこの言葉も、儒教の四書五経の書物『大学』が由来になっている。しかし一体、どれだけの日本の大学が、「人間完成への道」ということを考えているだろうか?立身出世のための大学、年収を高めるための大学になっていないだろうか?
 学問を究めんとされた孔子は言われる。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と。これは「明日の朝に、学問を究めることができて、人間としての正しい生き方を体得することができたら、その日の夕方に自分は死んでしまっても構わない」という、学問に対する強い情熱を込めた言葉である。
 同じような学問に対する強い情熱を込めた言葉として、幕末の長州の仏教僧侶の月性という方の言葉があるので紹介したい。
「男児 志を立てて 郷関(きょうかん)を出ず 学 ()し成る無くんば 死すとも還らず
 骨を(うず)(あに)(ただ) 墳墓(ふんぼ)の地のみ ならんや 人間 (いた)(ところ)に 青山(せいざん)有り」
 これは「男が学問で一人前の人間に成らん志を立てて、故郷を出て、もしも学問が身につかなければ、死んでも帰らない。骨を埋めるところは墓とは限らず、あちこちに骨を埋めれる山々がある」という意味である。
 もちろん学問の中には、語学、数学、科学といったものから芸術、体育にいたるまで様々なものがある。しかしそれらの学問は、学問において中心的な位置づけではなく、あくまでも学問の中心には、「徳」というものを人々に授け、人間としての言葉と行動を正していく「修身」があり、そして究極には「人間完成への道」がある。
 東洋の孔子や孟子、あるいは西洋のソクラテスやプラトンが考える学問とは、そういった「人間の向上」、「徳の獲得」を目指す「道」であったのである。
 学べば学ぶほど人間として成長し、そして素晴らしくなる、それが本来の学問である。だからそういった意味を込めて、かつての日本人は明治維新をキッカケに「大学」というものを創設したのだ。東大や京大の前身である帝国大学も、慶応義塾の福沢諭吉も、早稲田の大隈重信も、日本人の徳の完成を求め、日本人に「道」を教えるために大学を創設したのである。そして日本で義務教育が始まると、かつて古代の中国にあった初等教育機関の「小学」から名前を取り、「小学校」というものが立てられた。
 すなわち本来の小学校、中学校、高校、大学といったものは、「修身」および「人間完成への道」であり、「道」を教えるところであったのである。なぜならそれが本来の学問であるからだ。そのために本来の学問を学ぶ姿勢というのは、「手段としての学問」ではなかった。
 私がまだ不良少年だった時代、六本木には慶応やら、早稲田の大学生たちが、イベントサークルを作って、チャラチャラして、女性ばかりナンパして遊びまわっていた。彼らは「学問」、あるいは「大学」という言葉の本来の意味も、さらには自身の大学の創立者の理想も、おそらくまるで何も理解していなかったことだろう。
 つまり良い大学に入るための学問、良い会社に就職するための学問、立身出世をするための学問、こうしたものは本来の学問ではない。真の学問とは、「学ぶ」ということ自体が、まさに目的だったのである。
 たとえば吉田松陰は、黒船の密航が失敗に終わり、下田の牢に入れられた。当時の日本は鎖国状態にあり、自由に外国に行くことは許されていない。そのために吉田松陰は助かる見込みは分からず、処刑されるかも分からなかった。
 しかし吉田松陰は一緒に捕まった金子重之助にこう言った。松浦(まつうら)光修(みつのぶ)という方が書かれた『孔孟余話 吉田松陰かく語りき』から、そのやりとりを紹介させていただきたい。

 
 (私は)死を覚悟しつつ、渋木くん(金子重之助の変名)に言いました。
「今、ここで読書をすること・・・・それこそ『ほんとうに学問をする』ということなのです。昔、シナの前漢の時代に、第七代武帝の死後のおくり名をどうするか、という議論をしているうちに、時の九代の皇帝である宣帝の怒りにふれ、獄に入れられた夏侯勝(かこうしょう)黄覇(こうは)という人がいます。夏侯勝は儒学者でしたから、黄覇は夏侯勝に『学問を教えてください』と言いました。しかし夏侯勝は、『じきに死刑となる私たちが、今さら学問でもないでしょう』と言います。
 すると、黄覇は、こう言いました。
『「論語」という古典には、「もしもある日の朝、正しい生き方を知ることができたら、その日の夕方に死んでも悔いはない」とあります。ですから、なるほど私は、いつ死刑になるかもわからない身でありますが、ぜひとも今、学問を教えていただきたいのです』
 夏侯勝は、その言葉に感動して、ようやく学問を教えることにしました。
 そのようにして、三年の歳月が過ぎます。その間、二人は獄中で講義や議論をして、学問を怠りませんでした。するとある日、突然、皇帝から人々の刑罰を軽くする・・・・という命令が出て、二人は思いがけず釈放されることになったのです。そののち二人は、ふたたび役人に返り咲いて活躍しています。
 さて、この話をもとに、今の私たちの境遇を考えてみましょう。獄中にある時、先の二人は、『いつか釈放されるにちがいない』などとは、夢にも思っていなかったはずです。しかし、正しい生き方を知ることを、何よりも楽しみに思い、また、そのために学問を、何よりも好んでつづけているうちに、そのような良い結果が自然におとずれたのです。ですから今、私たち二人も、前漢の時代のその二人にならい、明日はどううなるかわからない身でありますが、ひたすら学問を続けていくべきではないでしょうか」
 私がそう言うと、渋木くんも、とても喜んでくれたものです。

 この後、吉田松陰は長州藩の萩にある野山獄に護送され、その獄中の1年2ヶ月の間に、618冊もの大量の書物を読破している。このように学問というものは、手段として行うべきものではなく、本来は正しい生き方を学ぶために、目的として行うべきものである。
 人は命ある限り学ぶべきであり、それが真の学問である。そしてその「本来の学問」を人々に教えるものが、「本来の教育」というものである。そして武士道とは、学問であり、教育であり、日本人が歩み、歩んでいく道である。
 しかし戦後の日本の現実は、そうなってはいない。むしろ教師たちの多くが、「なぜ人は学問をするのか」という一番肝心なことを教え子たちに教えられていない。「小学校」、「大学」の名前の意味の由来さえ知らない教師も多い。
 そもそもの話なのだが、大学で「教員免許」を取る者に教師資格があるのか、「道」を尋ねられて何も答えられない者に、本当に教師資格があるのだろうか。
 現代の日本は「知識社会」と言われながらも、そもそも「学問の本質」を見誤っている知識人たちも少なくない。その結果、「目的としての学問」をするのではなく、「手段としての学問」を行っている知識人もおそらく多いことだろう。
 すなわちソクラテスの時代と同様に、「自分は知っている」、「自分は一流の知者である」と、慢心している知識人はおそらく多いことだろう。今の東京は現代のアテナイなのだ。
 私はけっして、そういった「知識人」に対して、喧嘩を売るつもりはない。しかし本書は、彼らからすれば「デタラメに過ぎない」、「くだらない戯言(ざれごと)にすぎない」、「バカな人間の世迷い事に過ぎない」と、一言で片づけられてしまう可能性があることを、あえて本書の冒頭で予言しておきたい。
 なぜなら本書で、私がこれから語る内容は、彼らのプライドや自我に触れてしまいかねない、そんな恐ろしい内容だからである。しかしたしかに言えること、それは東大や京都大学を出ようが、オックスフォードやケンブリッジを出ようが、中卒や高卒だろうが、人は皆、己の無知を謙虚に自覚することによって、真なる英知につながっていく。そして自らの無知を知り、目的として学問を行い、いかなる逆境の中に置かれようとも、ただひたすらに学問をし続けることで、人は心の欲する所に(したが)へども(のり)()えなくなっていく。学問の目的は道を知ることであり、修身の完成であり、真の学問とは人間完成への道なのである。
 本書は、アウトローや一流大卒を問わず、「真の強さとは何か」、「真の学問とは何か」を、探求するものであり、その中で今、日本人にとっても、とても重要で恐ろしい情報にも溢れているものでもある、そう私は自負している。
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